「明日に道を聞かば夕べに死すとも可なり」が「道の花」とは

「明日に道を聞かば夕べに死すとも可なり」とは道(真理)が如何に重大かを表現した言葉である。「人生不可解なり」の言葉を残して華厳の滝に身を投じた一高(現在の東大)の学生がいたという話を聞いた事があった。
検索してみると、、、旧制一高生の藤村操が日光の華厳の滝に身を投じたのは、1903(明治36)年5月22日。〈万有の真相は唯(ただ)一言にして悉(つく)す。曰(いわ)く「不可解」。我この恨みを懐(いだ)いて煩悶終(はんもんつい)に死を決するに至る〉滝のそばの樹を削り「巌頭之感」として記した、、、
とある。社会的にも大変恵まれ優れた能力を持った青年がそのように自殺した事は当時の社会に大変な衝撃を与えたという事である。天理教ではこのように理屈で悩む事を理上として、人間の大きな苦悩の一つとしている。この天理教の話には、これが「道の花」であるという大切な続きがあるのだが、「人生如何に生きるべきか」について誰しも悩む時があるという事である。
こうした問題を考える時には哲学的問題を通過しなければならず、神は存在するのか?神とはどの様な存在なのか?神が存在するとすればどうしてこの世界に罪が存在して悪が存在するのか?そして、どうすれば救われるのか?などを考えなければならない。それに応えるかのように聖書で「私は道であり、真理であり、生命である」と言ったのはイエス・キリストであった。
悩んでいた彼はイエス・キリストにも出会う事が出来たし、また恐るべき悪魔にも出会う事が出来た。それはまさに「道の花」つまり人生の花の時であったという事が出来るのだ。

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